賞賛とか尊敬ってのは

得るのは難しいと思いますが、いくつかルートがあるんですかね。感動を与えるとか。理解させるとか。理解はできなくとも証拠を突き付けるとか。あるんですかね。例えば音楽とか人を感動させることができると俺は思ってますが、こういうのは賞賛を得ることができると思います。またスポーツとかも人を感動させるらしいですが、俺はあまり感動しません。ただ目の前で繰り広げられる常人からは逸脱した能力を見せつけられ、その異常とも思える動きを理解することはできませんが、否定できない事実を証拠を見てますので、賞賛に値すると感じます。理解から来る賞賛というのは、学校の証明問題とかすらすら解いて見せられた時に、それを理解して賞賛するとか、そういう感じですかね。理解から来る賞賛というのは程度が恐らく一番に低いと思ってます。否定できない証拠を突き付けるようなものよりも。ケースバイケースかもですが。分類もいい加減ですし。感動させるのは難易度が高いと思ってます。じゃあ俺に感動を与えず、何ら証拠を突き付けるようなこともせず、理解させることもできなかったなら、俺は賞賛し得ないと思うんですよ。そうじゃないんですかね。賞賛とか尊敬って言葉よりも、もっと程度の低い言葉として認めるって言葉があるのかもしれませんが、認めることもできないんじゃないですかね。スポーツは紛れもなく人体が動いているので、その人の脳味噌と身体能力が限りなく正しく世界に表現されますが、そうじゃないものは難しいですよ。操作パッドみたいなのが入ったりするとさ。その時点でいかさま疑惑がどうしても付きまとうんですよね。そうなると安易に受け入れられない。認められない。そんなものを安易に受け入れたら詐欺師に何度だまされるか分かりませんし。それでも世の中の役に立っていれば、受け入れられる道はある。なぜならその人が自分の為ではなく世のために動いているわけですから。でもそれが単なる遊びだったらどうですか。凄いねで終りでしょう。だからそういった遊びというのは理解できるもの同士で認め合うしかないと思ってるんですよね。違うんですかね。だから構造的に弱いんですよ、そういった遊びというのは、認められるということにおいて。無理なんですよ。感動も与えず、理解もされず、世の役に立たず、確度の高い証拠すら示せないんですから。頑張れば確度の高い証拠を示すことはできると思うんですが、コストに見合わないでしょう。そこが限界だと思いますね。

「自分ができないからってくさすようなこと言うな」って論理は一見するともっともらしいんですが、そりゃ違うでしょうってことですよ。くさすことを言ってたら問題かもですが、ストレートに賞賛してくれって要求するのはどうかしてるんじゃないかって感じですかね。

俺もキャバクラとかでプログラマですとか言うけど、そうなんですねーとか言われるぐらいですよ。食いつきの良い子でもすぎょーい私パソコンできないからー。ってレベルの反応ですよ。

しかしはやぶさ 2 の帰還は嬉しいな。