褒められて伸びるってのは本当に理解できない

他人に褒められて何が嬉しいのか。うるさいだけだと思うんですが。褒められようが貶されようが、時間の無駄ですし、ただただうるさいですし、猜疑心を煽られます。世の中には挨拶とかお世辞とか社交辞令ってものがあるので、大人な俺はそういったものかと受け流しますけど。俺自身の評価は俺がするし、お前の評価とか心底どうでもいいってのが子供のころからの俺の考えの基本です。ただ当然ですが俺は自分を万能な天才みたいに思ってないので、他人の知見に価値はあると思ってます。知見には価値があるけど褒め言葉には価値がない。他人の評価に価値があるとすれば実利につながるかどうかだ。実利ってのを世の人々に最も分かりやすい言葉で言い直すならば要は金が貰えるかどうかです。もちろん金以外にも実利ってのは色々ありますけど。つまり他人の評価それ自体には価値はあるけども褒め言葉は不要ってことです。ただし褒め言葉は社交辞令としての価値は持っている。社交辞令ってのはコミュニケーションを円滑にするためのものだと思っているので、逆にコミュニケーションを阻害するような使い方をするのは誤りなわけですよ。個人の見解ですが。

「私は褒められて伸びるマンです」って自称するのは、色々な意味を含んでいるじゃないですか。色々な意味を含んでいるってのはともかく、俺はそんな言葉は信じられないわけですよ。人間には知恵があるので。でも犬猫を見ていると思うんですよ。猫は本当に人間のこととかどうでもいいって思ってる感じの個体が多いし、犬は逆に人間に褒められたくてしょうがないみたいな個体が結構いる。それを見ると人間にも個人差があって褒められて嬉しいって思う人もいるんだろうなって思うようになったわけです。人間の言葉は嘘くさくて信じられませんが、犬猫の反応は信じられますから。ただし最初に書いたように「私は褒められて伸びるマンです」って自称されたら、その発言は色々な意味を孕む可能性があるため額面通りに解釈するべきかは一考を要するでしょう。人間の言葉ですから。俺の第一印象は「こいつは周囲を操ろうとしているな」です。

ある人間が褒め言葉を言ったとして、そこに価値があるのかってのを少しだけ掘り下げて書いてみます。まず知見ですね。俺の行いを別の人間が褒めた。褒められたことには価値はないが、その人間からしてみれば褒め言葉をかけるだけの行いだったという知見が発言に含まれている。なので俺は知見を得ることができるという意味で少しは価値を見出せる。その知見に価値があればな。また嘘の可能性や社交辞令の可能性や取り入ろうとして来ている可能性もある。社交辞令であることを考えると、俺は反応を示さないといけない。嘘である可能性や謀略である可能性なども考えなくてはならない。本当に時間がもったいない。褒め言葉をかけて来たと言うことは、本当に相手が俺のことを褒めているのかもしれない。それは評価しているということだ。そうなると褒め言葉それ自身に価値はないものの、実利が後からついてくるかもしれない匂いを感じ取れる。実利だけ与えてくれれば良いのにと思うが。また褒め言葉を周囲の耳目に入るようにかけられれば、その発言者の影響力にもよるけど周囲の評価に影響が出る。それがプラスになれば実利につながる。

国民負担率 47.5 ってのが問題というより、貧困層の負担率が高いことが問題と思ってます。まあ貧困層の負担率が高いから国民負担率も高くなってるんですが。

石井慧「人を外見で判断する人が多くて…そういう人は寄って来なくていい」ひげ伸ばした理由語る

https://news.yahoo.co.jp/articles/cb3f78324c31d023bb2965766cf4f60775e66f24

テレワークしてると「アイコンを顔写真にしろ!」みたいなことを言ってくる職場が世の中にはあるらしいですよ。相手の顔が分からなくて不安とか言ってますけど。あれって何なんでしょうね。相手の顔が恐そうだったら手揉みしながら下手に出て弱そうだったら踏み潰すように接したいってことなのかな。誰であろうと同じ様に敬意をもって接していればいいだけだと思うんですが。弱い奴には強気に出ないと自分のキャラが崩壊しちゃう病にでも罹ってるのかな。本当に謎ですよ。美醜が見たいのかな。顔認証的なセキュリティは確かにあるけど。顔写真アイコンで分かるか本当に。実際の顔とは違って見えて分からないもんですよ写真なんて。