極限隠喩

物凄いてきとーに名付けました。俺も国語とかよく勉強してないので、もしかしたら別のしっかりとした言葉があるのかもしれないけど。いきなり何を言ってんだって感じとは思いますが、たとえばさあ、何かを伝えたいとするじゃないですか。その時に趣旨を明確にするために他のことをそぎ落とすというのは誰でも良くやると思います。読み手の着眼点を限定させるために。こういうのって基本だと思うんですよ。俺は人に何かを伝えることに関しては全くプロフェッショナルじゃないんですけど、そんな俺でも分かってることです。

で、ですよ。そんな技法の中の 1 つにこれから俺が勝手に名付けた極限隠喩というものがあるかと思うんですね。じゃあこの極限隠喩ってのが何かって言うとですね。少し話がそれますがこの極限って単語を選んだ理由ですが、数学の limit から来てます。無限小とか無限大とか 0 とか、そういうやつね。それを念頭に置いていただけると理解が早いかと思います。

何かを伝えたいとして、その話の過程で、数量的には確定していないことなんだけれども、とにかく物凄い数量とか、そういうのを言い表したい場合に、「物凄い」みたいな言葉を使わずに敢えて隠喩を使うんですよ。これは別にどんな数量でも良いです。数値化できないものでもいいんです。太陽みたいに大きいとか、光みたいに速いとか、スーパーコンピューターみたいな計算力とか。でもまあ直喩じゃなくて隠喩なので「太陽」「光」「スーパーコンピューター」って言いきるんですけどね。

じゃあこれは何のためにそうするのかって言うと、物凄い大きいみたいなことを書くとですね、読み手は疑問に思うんですよ。どんぐらい大きいんだよって。だからそういう曖昧表現を避けた方が着眼点を限定できるんです。次に具体的な数値を筆者が知らないわけですから、具体的なことを言えない状況でも使えるんです。そして隠喩を使うことで読み手に対して具体例を示せますから、読み手の脳内のイメージが具体的なものになるんですよ。そして極端な隠喩なので隠喩だと伝わりやすいんです。そして最終的にどういう理解に達するかというと、これはお約束のパターン(極限隠喩)だなって伝わって、つまりそこは話の趣旨的にどうでもいいところで、とにかく物凄いってことで切って捨ててくれって書き手が言ってるんだってメッセージが読み手に伝わるんですよ。この切って捨てるってイメージが正に limit だと思いませんか。まあそこはどうでも良いんですけどね。

俺もこの極限隠喩パターンは今までの人生で数えてないけど千とか万とか聞いてると思います。なので何となくわかるような気がしていますけど。どうかなあ。昨日の俺の記事にもあるんですけど分かりますかね。それが分かる人だったらたぶん標準的な理解力がある方なのかなあって思いますね。逆にあの単語に突っ込みを入れるような人はちょっと低いかもしれないですね。でもそんな気に病むこともないと思います。自分に理解力がないって自覚があれば、なんとかなりますよ。自覚がないと大変ですよ。前にテレビで見ましたよ。野村監督の語録みたいなの。何となくできちゃうのが一番こわいってさ。つまり自分の理解力のなさを自覚できたということは、しっかりと脳内にシステム作り上げて理解力を高める土台ができたってことじゃないですか。