知的障碍者に関する話

そろそろ書いても良いかなって思うので書きます。俺は小学生の頃に知的障碍者を蹴っ飛ばしたことがあります。なんでだと思いますか?そんなに難しい理由ではないんだけど。でも知的障碍者を普通の小学校に入れるって人間には想像もできないような理由なのかもしれません。教えてあげますよ。俺がなんで蹴っ飛ばしたのか。なんか知的障碍者を普通の小学校に入れることに使命感を感じてる親がいるみたいな記事が目に入ったのでね。

どういった施設で知的障碍者と関わったとか書かないけどさ。あんまり詳しく書くと身バレしやすいしさ。まあとにかくある施設で俺はその知的障碍者と関わっていたんですよ。でも俺は知的障碍者という存在を知らなかった。保護責任者からはこの子は優しくて昔にあったショッキングな出来事で、こんな風になってしまったのって説明をされていて、俺は純粋でしたので真に受けて信じてた。周りの少年少女には知的障碍者だよって言ってる人もいたけど、俺はそれを違うよ優しい子だから…って全力で否定してみせてた。良いですか。俺はそれぐらい純粋でしたよ。そして俺はある時その子と遊んだんだよ。割と暇だったから。そして何度か遊んでた。そしてある時から俺は良く分からないけど、一人でいたくなったんだよ。でもね、その子がどこに行ってもついて来るんだよ。だからついて来るなって言ったわけ。何度もね。叫んだりした。だけどニヤニヤしながらついて来るんだよ。俺は思ったんですよ。これはもう暴行するしかないんじゃないかと。周りに言うって選択肢は俺には取れなかったんですよ。俺がバカだったってのもありますけど、俺は彼のことを一人前の人間として見ていたから。知的障碍者として認めていなかったからです。それに周囲の人間に知的障碍者だからついてきちゃうってことも言いたくなかったんですよ。そういうなんつーんでしょうね、今までがすべて仮初の暖かい日常だったんだみたいなことにはしたくなかったんだと思います。その時の俺の心情は正確には思い出せないんですけどね。ただ俺は彼を知的障碍者だって認めることだけは強く否定していた気がしますよ。そして蹴っ飛ばして泣かして嫌われることで、彼は付いてこなくなりました。俺は陰で蹴っ飛ばしてるみたいな形になるのが嫌だったから、保護責任者や周りが見ている目の前で蹴っ飛ばした。だから保護責任者にも怒られたよ。なんで蹴っ飛ばしたんだって。でも俺は黙ってました。理由は絶対に言ってはならなかったんですよ、俺の中ではね。

まあそういったことが起こりうるってことをここに書き残しておきます。こういったことが起こるということが、それが知的障碍者や俺みたいな人間にとって精神の成長だとかに寄与して素晴らしいって思えるんであれば、胸を張って入学させても良いのかもしれないですね。まあ確実な正解なんて無いとは思いますよ。確かに俺は学びましたよ、知的障碍者という存在をまず認めて受け入れましたし、知的障碍者に下手に優しくすると後で苦い思いをするって、優しくするのなら本気ですべて受け止めるぐらいの覚悟が必要なんだろうって。

まあでもそれは今になって思えば、知的障碍者を一人前の人間として完全に認めると言いますか、そうした上での優しさの場合と言いますか。ちょっとわかりづらいですけど。なんというか知的障碍者は知的障碍者なんだって受け入れてしまえば、それはそれでそれなりの優しさというのはあるんですよね。それがもしかしたら本来の姿なのかなあ。言いたいことは伝わりますかね。自分と同等の存在として認めるってことは、相手に敬意を払うと同時に責任とかも持ってもらうってことになるというかね。相手を一人前の人間として認めるってことはそういうことじゃないですか。人がついてこないでって何度も言ってるのにニヤニヤしてついてきたら、それは一人前の人間であれば嫌がらせして来ているってことですから、何らかの報復とか始末とかつけなきゃならなくなるんですよ。でも相手が知的障碍者だと認めてしまえば、相手が生まれたての赤ちゃんのようなもの、相手が年下の格下のような存在であると認めてしまえば、それはそれなりの対応ができるんですよ。それなりの優しさで。でも相手をそんな格下として見るようなことが本当に優しさなのかと、そんな風にも思いますよね。葛藤がありませんか。現実を見れば、相手はどう見ても知的障碍者なので知的障碍者として見るしかない。でもそれはまるで相手を人間として見ていないかのような、そんな気分になりませんか。小学生の俺はとても混乱していたと思います。特に保護責任者にされた説明が良くなかった。あんな偽りの説明さえなければ、俺だって知的障碍者は知的障碍者なんだって思えていたんです。少し過激な表現があるかもですけど、分かりやすいように書いたってことです。