俺の 12 年前の記事

https://ilovemisuzuchin.hatenablog.com/entry/20111204/1323001084

上記の記事でも言ってるよな。日本銀行券や政府発行紙幣を刷って、それを次世代エネルギーや次世代農業プラントに投じれば良いってさ。御札を刷れば円安やインフレになって物価高になるだろうけど、エネルギーを洋上風力発電で自給して食べ物も農業プラントで自給すれば、そこまで大きな問題にはならなかったはずなんだよ。これ 12 年前の民主党政権時代の記事だからさ。実際には俺はこれよりも更に前から同じようなことを言ってたはず。

アベノミクスって何なんですかってことは俺も 2013 年ぐらいの記事で疑問を呈していたんですけど。あまり水を差すようなことを言うのもどうかなって遠慮していたと思います。上記の 12 年前の記事にも書いてあるように、円安やインフレを見越して日本はエネルギー自給や農業プラントに投資すべきだったんですよ。円安やインフレを目指すのであれば。だけどあまりそうしてこなかったように見えます。日本にエネルギーや食べ物で自立されると困る国がいます。さてどこでしょうね。アベノミクスは欧米に歓迎されてました。なんで日本のための政策のはずなのに欧米が歓迎してたんでしょう。当時のアメリカはばら撒き政策中だったはず。アメリカだけが米ドルのばら撒き政策をやるとどうなるでしょうか。そこに日本が後からばら撒き政策で追随した。なんでだと思いますか。そのあたりがアベノミクスがどこの指示で行われていたのかって答えになるのかなって俺は思ってます。

良くある悪魔と契約して、何かの願いを叶えるんだけど、実際には願いを叶えられて酷い目に遭う話ってあるじゃないですか。不老不死になりたいって言って叶えてもらうんだけど、実は人間じゃなくなってしまって自由が全くなくなるとか酷い代償を伴うものなどなど。そういう奴じゃないかって 2013 年あたりの記事で言ってた気がします。それでいて「おためごかし」っていうのかな。日本の為だって言いながら実は日本の為ではなかった、そういう感じ。

NHK スペシャルを見ましたよ。日本銀行は物価の番人とか言ってましたけど。その言葉ってどうなのかなって思います。日本銀行は一応は銀行ってことで、銀行業務だけをしていればいいのかもしれませんが、物価の番人じゃなくて経済の番人であって欲しいんですけど。経済の番人ってどういう意味だよって言うと、将来的な状況を見越して経済構造をどうするべきかってところまで考えて通貨を発行して欲しいってことだ。日銀にそこまでの力はないって言うかもだけど。デフレになって経済が収縮している状況ってのは金の供給量が足りないってのが俺の理解で。デフレは要は貯金があるってことだと言い換えても良くて、それは紙幣を刷る余裕があるってことです。だけど単なる貯金ではなく曲者で良いことばかりだけでなくて貯め込んでいると経済が収縮してしまうわけです。なので金を供給した。そこまで良かったんですが、その新しく刷った金は何に使うべきだったかっていうと、それは自国に足りない部分に費やすべきだった。日本であればエネルギーや食糧を輸入に頼っているんだから、お金を刷って円安にするのであれば、そこにお金を投じなくてはならなかった。そういった産業で雇用を生みだすようにすべきだった。それがアベノミクス前からの俺の理解です。

単なる理解なので。そうしろとか言ってないです。俺の個人的な 10 年ひょっとすると 20 年ぐらい前からの理解です。そうしろって言ったとしても、そうできないんだけどさ過去の話なので。過去の時点でそうしろって俺が言ったとしても影響力が皆無の当ブログですから誰も聞く耳は持ちません。それは今の状況が証明しています。

でも流石に今の状況になれば誰でも気づくでしょ。日本はエネルギーを自給しなくてはいけなかったんだって。本当に遅いなって思うけど、気づけて良かったですよね。一部の人間が困難を予測して予めその困難を潰してしまうと、多くの国民が困難が遭ったことに気づかない。国民が学習できない。そういった面で有効だと思います。そっちを重視したのかもしれませんね。国民を目覚めさせるためには困難が必要だった。厳しい決断ですが、それを選択したのでしょうか。日本は合意形成を重視するお国柄ってのもあるのかなあ。小さな困難の克服は大きな困難の克服の一助になり、大きな困難の克服はより大きな困難の克服に繋がります。今は経験値を貯める時、そういう判断なのですかね。俺にはそこまで先は見通せてないですが。何かあるんですかね。第二次世界大戦の敗戦の経験もバブル崩壊の経験も今の日本人を形成するには必要な経験だった、そういう考え方もできますし。塞翁が馬っていう事故の故事もあります。事故にあって骨折したから兵役を逃れられたって話。不幸が後の幸福につながることもある。