引き続き気持ち悪さについて

野心の有無とか主人公の性格も大きいんですよ。野心的な人間が統治する話というのは昔から良くあるわけです。それで善政だったり悪政だったりするわけですけど、権力欲があったり野心的だったり上流階級に染まった人間がやっているのであれば、そんなに違和感や気持ち悪さはないんです。それはトップに立っている人間はトップにふさわしいふるまいが必要だって言ってるわけではないです。そういうのもあるかもしれませんが。そうではなくて俺が言いたいのは、こうして本などで物語として野心とかが無い権力欲がないそこそこ人格者なお人よしが神のような圧倒的な力を持って人々を統治して善政を敷くことで人々が幸せになる、みたいな描写をされると、それが良いことなんだって思えてしまう、思わされてしまうことに忌避を感じるところがあるということでしょうか。別に難しい話ではないですが少しややこしいことを言うので、そこそこ理解力がある人じゃないと伝わらないかもしれません。確かに優秀なトップがいる組織というのは、それが独裁体制であっても、その組織の人々は幸せになったりするんですよ。幸せってのは難しい概念かもですが。そこはてきとーに考えてください。話の主題ではないので。とにかく優秀なトップの組織は幸せになるってことで、そういった考え方がありますと。その上で人々は思うわけですよ。トップが優秀だったらなあ…って。そこまでは別にいいです。でも実際のところ現実というのはままならないものなわけです。実際にトップにつくのは、トップにつきたいというモチベーションが比較的高い傾向が強く、世の中への奉仕の傾向は高いこともあれば低い人もいる、性格の善し悪しも様々で、そのあたりは博打的というか確率的というか。そんな感じで運命のバランスが取れている、とでも言ったらいいのかな。そんな厳しい現実があって、そこで合議制という考えが生まれるというか。各々の個人が自立心を持って俺も立ち上がらなければいけないと思って、合議に参加し、世の中をよりよいものにしようとしていく、その心構えを持つ。そういう流れが生まれる。んじゃないかな、と俺は思ったりしてます。では俺が読んでいる、トップの自覚がなく隠居体質で神の力を持っている人間が幸せな国を作ってる物語はどうかというと、それは正に「優秀なトップがいる幸せな独裁国家」を表現しているような国であって、それは幸せな国ではあるのですが、俺には心情的に受け入れがたいところがあるというわけなんですよ。トップを崇めてるし。自立心は削られてしまうし。俺も間違いなく幸せな国なんだろうと思っています。ですがこんな国は存在してはいけないとも同時に思えるんです。こういう国というのは現実的には壁がありすぎて存在できないです。ですが実際に存在してしまったら大変です。この本は政治・統治について書いてる本ですので、その if について只管に描写しています。だから気持ち悪いのかもしれません。

トップが優秀でも、性格に難があったり、野心が強かったり、色々と戦争だとか外交で苦労してたり、内政に色々と問題を抱えてたり、何かしらの汚点があるというのが普通であって、俺が読んだことがありそうな統治系の本やアニメなどは、優秀な統治者であるもののやっぱり何らかの失点みたいなのはあった気がします。それがあるから現実味があるわけですし、また現実として存在することを受け入れられる。物語なので現実ではないのですが、物語の現実の運命として受け入れやすい。つまり俺は仮令それが物語の中であったとしても、力強い理想的なトップが築く社会というのは幻想であり続けてほしいと願っているのかもしれません。それは決して叶ってはならないのだと。その幻想を抱く程度がちょうどいいのだと。

統治というテーマは大人向けだと思っています。そして完全な正義とか勧善懲悪みたいなのは子供向けのテーマだと思っています。大人は子供より現実を良く見るので、完全な正義みたいなものの危うさも理解しています。正義のヒーローが悪のボスを倒すということであれば、別に何の問題もないのです。実際の社会に何の影響もない。だけど統治というテーマは生々し過ぎるんですよ。そこに正しさみたいなものが入って来ると忌避を感じるのは当然かと思います。

ハーレムについても似たことが言えるかもしれません。なんらかの野心的な傾向とか性欲をむき出しにする感じとかあれば、ああそういうことか、という腑に落ちる感じがあるのですが主人公が控えめなのが逆に嫌なのかもですね。

でもまあ作者が好きに書けば良いとは思ってますけど。