善について

話がかなり変わりますけど、割と良く聞く俗な言葉で「利他の精神」とか「無償の愛」とか「見返りを求めない」とか「自己犠牲」とかありますよね。これはなんなんでしょうね。自分が損をする、もしくは相手が得をする。それも目に見えて分かる一般的な尺度で。一番わかりやすいのがお金ですよね。非常にわかりやすいんですよね、この話は。でもさ善かって言うと違う気がするんですけど、ただ誰も他人の頭の中までわからないわけですし、情報過多のこの世の中でとても個々人が全ての情報を処理しきれない、すべての他人についてどんな人なんかなんて知りえない、そういった未知なる情報が多い状況下において、そういった行いをする人は善人である可能性が少しある、ぐらいの判断を下すには有用な情報なのかもしれないですよね。ただし確度はそんなにあるわけではないけど。第三者同士で話をする分には分かりやすいですよね。自分が損をして相手に得をさせた、いい人だなって言うのは容易い。でもその程度の話とは思います。ということで損得と善悪に直接的な関係ないんじゃないかなあ…って思いますけど、どうなんだろう。ただ社会的な要請はあるんですかね。お金を持っている人は寄付してね、みたいな。その寄付という行為に対して社会は「善行している」と反応を多少は示さないとならないというか。そういうところはあるかなあ。まあ実際のところ「見返りを求めない」寄付が善意によるものであることも多々あると思うんですけどね。

まずその善ってのが時代や場所によって違うと思うんですよ。善の絶対的な定義があるのかないのか、あっても困るとは思うんですけど。だから善の研究なんて本があるんだと思いますよ。一冊の本が出来てしまうような難しい話なんでしょう。だから俺もこうして考える余地があるってわけですよ。まず今の時代は人殺しはダメって話になってますけど、日本国内では。世界的にもそうですけど一般的に。でもまあ戦国時代なんかは、もっと人を殺してたわけですよね。善悪の基準がかなり違ってたはずですよ。基本的には殺さない方がいいってのはあったと思いますけど、そうじゃないとかなり無法地帯になって世紀末的になってしまいますし、戦国時代はそこまでじゃなかったはずですし。前回の記事では人を楽しませるという行いについて書いてたので、この行為はほとんどの場面で善と見てしまっても、地球上の現生人類については間違いないと思っていますけど、そうじゃないものも色々とあったと思うんです。そういうのがどうやって決まったかというと、社会情勢、それによって人心が動いて、そこで運用されている法律などがやはりそうなるのかなあ…。あと宗教ってのは、ああ宗教って言うと神様とか言う人がいますが、宗教ってのに神様は必須じゃないです。神様がいない宗教もあるということです。宗教ってのは特定の集団が共有している道徳観とか暗黙知とか、そんな感じじゃないですか。茶碗は左手で持って、箸は右手で持って、とかそういうのも宗教じゃないかなあ…。日本教。良く知らないけど。とにかくそんな感じのものだと思っておいて、要はその善というものが社会的要請で或る程度ぼんやり規定されると言いますか。キリスト教とかだと分かりやすいですけどね。こういうのが善だって書いてあるわけですから。まあとにかくそうやって社会的に規定される善というのがあると思ってるんですよ。先程の「無償の愛」「見返りを求めない」「自己犠牲」なんてのは、今の時代の日本においては社会的に善行と規定されてる感じがあるんでしょうね。規定されてるわけではないけど。

でまあこういった社会的規定による善行というのは、その人の頭の中に依存していないんですよね。その人が頭の中で実際には保身とか色々と考えていても、見た目上の善行を行えば、それは善行なんですよって。そういうことになります。キリスト教の教えってのはたぶんそうなんだと思います。だって頭の中なんてどうにもならないし。でもまあ徐々に徐々に洗脳していくような内容なのかなあ、聖書は読んだことないからわからないですね。

でも頭の中に着目すると、やっぱり違うんですよ。善行を行って報酬系脳内物質ドバドバの人は、その善行による痛みを感じていないんです。そうじゃない人が善行をした場合とても痛みを感じながら苦労して苦労してようやっと達成しているわけですよ。それこそ強い自我によってね。「なんでこんなことしなきゃなんねえんだYO!」って思いながら物凄い頑張って出した結果なわけです。こう見るとさ、どっちが善意が強いのか分からないですね。

でもね善行というのは社会的に要請されているし奨励されることですよね。ドバドバの人が 2 の仕事をするだけの苦労で、ドバドバじゃない人が 1 の仕事しかできないとします。この時にドバドバじゃない人は相当に頑張ってますよ。でも社会的にはドバドバの人をより強く賞賛するより他ないと思うんですね。どんなに成果がなくてもみんな頑張ってるんだって、そういう考え方もありますけど。でも資本主義だからなのかな。基本的にドバドバの人が良く頑張っていい人って話になります。まあ現代科学技術では頭の中までわからないですし、しょうがないんですけど。それに優生思想とかありますしね…。でもそこはそれ以上は触れないですけど。まあとにかくそうなっちゃうんですよね。

だからなんなんだろうか。まあ善とはこれだってのはないと思うんですけど。宗教の本には書いてあると思いますけどね。ただ聖書には次のようなことが書かれていたって、どっかで読んだんですよ、うろ覚えですけど。善悪が分かるようになる知恵の実を食べることは許さないって神様が言ってたとか。これってさ俺が言ってることと同じじゃないですか、もしかしたら。善悪ってのは知性があって、そこで初めて発生する概念だと。これについては聖書と同じ意見なのかなあって思ってて。知性がないものが何かを殺して食べても、それは悪でもなければ善でもない、なんでもないんです。善悪という概念がないんです。

しかし善の研究は善をテーマに一冊の本にしてるわけですから、相当に頭をよじって考えてますよね。凄いね。俺が書いた内容では一冊には程遠いですよ。