礼儀とか

礼儀って何のためにあるのかって、たぶんお互いに摩擦無くいられるようにあるんだろうなあって思うよ。俺は学は無いので当然そもそもの話とかは知らない。おそらく古代中国の春秋戦国時代の頃の文献まで遡るんだろうなあって想像するけど。

礼儀というのは媚びるのとは全く違うんですよ。当たり前だけど。本当にこう儀礼と言いますか。儀礼それ自体に全く価値はないんだと思う。まったく価値がない儀礼というものをお互いに共有し、こういう手順を踏んでる時はお互いに礼をつくしているという知識を共有した上で対話を行うことで、お互いに礼をつくしているんだという事実をお互いに作り上げることによって、礼儀というものが成立しているというか。ちょっと良く分からんかもだけど。俺も言ってて分かりづらいと思うし、細部にまで考えが行き届いてはいないとは思う。それでまた儀礼を社会全体で共有することで、A さんと B さんはお互いに礼儀を尽くして対話したんだって事実を社会全体で共有することができる…と。これも社会全体を摩擦無く動かすために必要であると。そういうものなんですよ多分。礼儀っていうのは。

礼儀とか邪魔じゃないか、もっとフレンドリーに行こうぜ!みたいなのもあるとは思うけど、それも一理あるんだけど、そこには落とし穴もあるんですよね。フレンドリーってところがポイントで、ここには心が籠っているわけです。心が籠ったことというのは、人のこころに侵入・侵食する行為なんですね。悪意がそこにあろうがなかろうが。善意っていうのは良いものだけど、世の中には詐欺師ってのがいて、詐欺師も見た目上は完全に善意で近づいてくるんであって、腹の中の悪意は見せないわけですよ。つまりフレンドリーさというのはそういう浸食的な側面を持っているわけで、警戒する人間は警戒するし不快なんだよな恐らく。

だから心が全く籠っていない儀礼というのが重要になってくるわけだ。まあ現実的には儀礼と言ってももちろん見た目上は心が籠っているように見せるわけですけど。儀礼というお作法自体が恐らく数多の人間が不快に思わない所作で作り上げられたものなんだと思うし、そこそこ人間の本能的に「礼が尽くされている」ように訴えかけられるようなものになってるんだと思う。

心が籠っていないことの大切さを教えてくれるのが礼儀なのかなあ。