やっぱりその職場に長年いることで培われたものってのはありますよね。それは良いことでもあり良くないことでもあるんですが。基本的には色々な職場を回った方が得られるものは多いと思うんですが、広く浅くなってしまうとは思ってます。同じところにずっといれば、そのことについては経験が深まりますし、知識が深まりますし、与えられる立場も権限も増えてきたりするとは思うんですが。逆にそこに限定された能力になってしまって、他のところに行った時に一気にゴミ化してしまう可能性もあります。順応性が無くなってしまうというか。どちらがいいとも言えないんですけど。たとえば顧客がいて、一次受けがいて、二次受けがいてって形の場合、一次受けであれば一次受けに特化した能力が伸びることになるわけですよ。デザインの主導権を顧客が握っている状況で、一次受けには限られているものの多少の裁量があり、その裁量の中で最大限の力を発揮するような人間が生み出される、とかさ。それは一般社会で通じる能力ではないんですけどね。普通に考えればデザインを変更した方が良い状況なんだけど、デザインを変更する主導権がない状況下で育った人間は、その裁量が認められる中で最適な逃げ道をいくつも探す能力が高くなるというか。それは別に一般的には不要な能力なんですよ。だってデザインを変更すればいいだけだからね。それが広く一般的な色々な職場に順応できる考え方。そうなんだけど、もしも、その一次受けの人がその現場のみに特化した人間になってしまったら、このデザインを変更すればいいだけという考え方を失ってしまい、その職場の裁量が認められる範囲で思考するような人間になってしまい、他の職場でもやっていける順応性を失ってしまう可能性もあります。そうならないように注意する必要がありますね。二次受けも三次受けも同じですよ。与えられた裁量の中で過剰に最適化されてしまった人というのは、どこにでもいる気がしますね。全く違うことも言うかもですが、そういった視野狭窄になった職場では手段の目的化みたいなことが起こりやすいですし、どうしてそうなっているのか歴史的な経緯なんかも失われたりするんですよね。根本を考える癖が無くなってしまっているというか。それは考えなくて良いことを考えないことを代償にして、作業速度が上がる諸刃の剣でもあるんですけどね。気を付けたいなと思いますね。そういう罠みたいなものは沢山ありますよ。ルールがこうだからとか、標準がこうだからとか、そういうけど、その標準って絶対に従わなくてはならないものなのかっていうと、そうでもないはずで。でもそれは彼等には考えることすら許されないことだったりするんですよ。ルールや標準には叡智が詰まってたりしますが、それを知るものは既に存在しないみたいな。もしかしたらそれは我々ホモサピエンスにも言えることなんでしょうか。灯台下暗しか。