ワロス曲線

為替相場を固定するために 150 円になったら円買い介入するみたいなことをすると、ワロス曲線を描いてヘッジファンド裁定取引みたいな感じで差益を掠め取られるのは有名な話ですが、GPIF が国内株式 25 % を維持するために日経平均が上昇すると日本株を売るってのを繰り返しているのは、それってワロス曲線じゃないんですか?同じ轍を踏むの?

嫌われ者の哲学

もし昨日の記事を読んで何か新しいことを言ってると感じた人は分かってないんじゃないか。俺は 1,000 万人はいるって書いたよな。日本の伝統文化って言っても良いと思っているよ。

たとえば日本には茶の湯ってのがある。俺も良く知らないけど、あれは一挙手一投足にまで事細かに指定された動きをしますよね。あれは昨日の記事で言ってることに近いんだわ。動きを完全に指定することによって人間味を排除していながら、その動きは相手を不快にさせないことに慎重に注意を払っている。また口をつける箇所を逆にしろだとか、茶碗を持つときの手の触れ方とか細部に渡って指定しつつ、同じ茶碗で飲むじゃないですか。それは同じ釜の飯を食うのに近い。礼儀ってものに近いというか礼儀そのものである気がするし、お互いの距離を縮めるためのものでもあるでしょう。またわびさびを重視していて煌びやかな装飾をせず質素な四畳半を使っており、それは互いの階級を排して話し合うことにもつながったはずだ。

つまり茶の湯は、好き嫌いじゃなくルールに則って話し合いましょうって場を作っていて、それはお互いに相手がルールを理解している、つまり話が分かる相手であることを前提として会う約束をするところから既に始まっていて、正に敵か味方か分からない戦国時代の会談のルールでもあったわけですよ恐らく。

戦国時代の大名ってのはお互いに自己主張が強かったでしょう大名だし。そして譲れないものもあったはずだ。自分がやりたいことは沢山あったでしょうし、背負っていて無碍にできないこともあったでしょう。だから大名同士の会談では互いに対立することが多々あったはず。そして殺し合いが日々あるような世の中だ。そんな中で茶の湯に従って会談するわけで、それは現代の日本企業がプライバシーマークを取得している企業に業務委託するような感じでもあり、会談するための切符でもあったでしょう。

それと古代中国の五常ってのがあります、仁義とか礼とか言われてるやつ。仁ってのは簡単に言えば博愛とか利他とか礼儀らしいです。日本は江戸時代に朱子学を統治に活用してたらしい。

なので昨日の記事で言っていた、個人主義(自分がしたいことをする)、博愛(仁)、道徳(朱子学)、法律(江戸幕府)のすべてが江戸時代にはあったし、寺子屋も大量にあって庶民の識字率も高かった。識字率が高ければ江戸時代の法律や道徳なども自然と頭に入ってたはずですよ。だから幕末の日本は急速に近代化できたんでしょ。ってことで俺は何も真新しいことは言ってない。凡庸な現代日本人像を自分ベースで描写したに過ぎない。

ただああやって開けっ広げに言う人がいないってだけだよ。だって言っても得しないからな。すっきりするだけで。好き嫌いとかどうでもいいですって言っても人間関係が面白くなることはないだろうし。むしろつまらないでしょ。それと以前に書いたようにわざわざ攻撃される理由を言わなくてもいいじゃないですか。今は健康で元気でも老後が心配だとかさ。

ここまで読めば理解が進むと思いますが、昨日の記事で書いた内容は開けっぴろげに書いてるだけで洗練されていないんだよ。あの記事の内容を洗練すると朱子学だとか五常だとか茶の湯だとかになるわけ。俺が思うに茶の湯は洗練されているよ。ほとんど知らないけど。人同士が仲良く話すためのツールとして当時としてはハイレベルに洗練されていたと言って良いんじゃないか。

人同士が仲良くなるために「仲良くしましょう」「仲良く話しましょう」「腹を割って話しましょう」「笑いましょう」ってのは下の下だよ。状況によっては有効だけど。目的が開けっ広げ過ぎるんだわ。仲良くするためのルールってのもだめ。たとえば分かりやすいのはポッキーゲームとかですか。あんなのダメです。見え透いているし。そうじゃなくて茶の湯はわびさびを前面に出して、ルールが分かっているもの同士で茶を飲みましょうやって、そうして話しましょうやって言ってるわけじゃないですか。そうやって厳密に指定されたルールがあり、そのルールってのが相手を不快にさせないルールでできていて、そうやって作られたルールを互いに押し付けられて受け入れて従って話すわけだ。そこに「互いに仲良くなりましょう」なんて目的はない。良く知らないで書いてるので、あったら完全に間違いだけどさ。たぶんないだろうって仮定して話を進めるけど。もし目的に「互いに仲良くなりましょう」なんてのがあって「ここで笑顔を作ってください」とかルールにあったら「ふざけんな!そんなものに従ってられるか!」ってなるじゃないですか。でもそういうことは一切ふれず、相手を不快にしないルールと話しましょうって目的しか茶の湯にはないわけだ。そしてルールが互いが良く知る大御所の第三者から押し付けられたものであることも大切で。大御所に押し付けられたってのが良いんですよ、押し付けられたことは自分の意思じゃないから。それは表面的に受け入れているように見えるけど、でも内心は分からないってスタンスを取れる。そのあたりが隅々まで計算されつくしてると俺は感じるから洗練されていると言っている。少し前に書いたようにわびさびもさりげなく階級間の垣根を取り除くし。

昨日の記事よりも宗教や道徳のが洗練されているのも疑いようがない。昨日の記事は分かりやすいように開けっぴろげに書いてるだけで、言ってることは良く知る宗教や道徳の小話と大して変わらないはずだ。物凄く分かりやすい例を挙げると、科学技術が進展していない世界では、互いに助け合いましょうって言うより神様がそう言ってるからって言い方のが説得しやすい。

そして好き嫌いで動く世の中よりルールで動く世の中のが嫌われ者には助かる。

それと俺が理解している性欲ってのはプラトニックラブも含むよ。そりゃもちろん性欲だろ。だって対象を異性に限定してるんでしょ。肉体関係はなくても可愛い顔が好きなんでしょ。そりゃ完全に性欲ですわ。

好意ってのはさあ

諸刃の剣ですよね。分かりやすく現実感があるのはストーカー被害とか。やばいのだと性犯罪とか。身近なのは子供が親の愛情を跳ね除けるとか。

他人の好意ってのを心から喜んでる人ってのはいるんですか打算なしに。子供の頃はそうなのかもしれないけど、その辺は本能に刻まれてるのかな、たとえば親の庇護欲を刺激するように親の好意に喜ぶように DNA に刻み込まれてそう。俺は割と早くに親の愛情をうざいと感じた方かなって自覚していますけど、結局その好意ってのはそれそのものは別にどうでもいいものでしょ。違うんですかね。俺と同じ考えの人は多いはず。俺もネットで性格診断とかやってましたけど、俺と同じ性格タイプの人は多かったりするんですよ、サイトにもよるでしょうが。他人の好意そのものは別に嬉しくもなんともないって人は、俺の推測では日本に少なくとも 1,000 万人以上はいるでしょ。性格診断サイトの情報や俺の人生経験をもとに雑に推測しましたが。多くの人間は好意のその先を見てるんですよ。

たとえば魔法少女とか Youtube でやってた人は視聴者に貢がせてたじゃないですか。あれってのは好意の結果ですよね。好意そのものは魔法少女は別に嬉しくなかったんでしょう。でも貢物は嬉しかったわけですよ。

でまあ俺は別に他人の好意は特に必要としてないんですよ。好意ってのは既に述べた通り悪い作用も齎すでしょ。俺は基本的に他人から好意を持たれないので、どうでもいい話なんですけど。ただ好意が齎す作用ってのには確かにメリットもあるんだよ。でも俺は貢物は欲しくないです。自分に好意を抱いてる人間に貢がせるとか、そんなクズみたいなことしたいとは思えない。子供のころはおばあちゃんにお小遣いせがんだけどな。そんなガキみたいな精神性はアルバイトし始めたと同時に捨てた。というかさっさと捨てたかった。まあお年玉は貰ってたけど。他人から何かを恵んでもらうってのはさ、生殺与奪を他人に握られてる、依存してるってことでもあって。それが非常に気に入らない。まあそんなこと言ったって同じ日本人だし色々な意味で運命共同体みたいなとこあるじゃん、ってのもありますけどね。大地震が来たら助け合わないと生きていけないし、警察が治安維持してくれてるから安心して外を歩けるし、医者が近くにあって健康保険があるから持病に耐えられるし、近くにスーパーがあって食べ物が買える、住むところを貸してくれる人がいる、そういうことを言い出したらキリはないんだけどさ。でもそういったのとは違うじゃないですか、お小遣いをもらったり貢物をもらうのって。確かに他人を魅了して金を出させるのも立派な仕事と言えるのかもしれないが、俺はそういうのは良しとしないんですよ。俺は俺が作り出した製品や商品が社会の役に立つ、そういう仕事をして、似たようなことをしてる人達と同じ土俵に立ちたい、そういう自立心みたいなのがあるんだわ。他人を魅了するってのは他人に媚びることでもあるし。そういうのも嫌だなあ。貢がせた人に迷惑をかけてるのも嫌だ。貢いだ当人は迷惑じゃないよって言うんだろうけど。

好意を持たれない場合、他のマイナスの感情が無ければ赤の他人で無関係な人同士になるわけですが、それで十分に社会が回って成立するんであれば、俺はその方がいいんですよ。それなりの道徳や良識があって、法治がしっかりしていてさ。困った人がいれば助けようじゃないかって人達がそこそこの比率いればちゃんと回るはずだから。

好意ってのは癒着を生み出すから。癒着ってのは社会構造を歪にして、不公正の原因になります。俺は自称博愛だし基本的にそういうのは好まない。そこそこ距離を取りたいと考えます。

仲良くなって友達になって遊ぶとして、そうなると自分のやりたいようにやれる時間が少なくなります。それは俺にとって嫌なことでもあります。他人と一緒にやるから大きなことができるんじゃないかって考え方もありますが。それは仕事として金をもらってやればいいじゃないって割り切ってます。

逆に嫌われるのも良くないことが色々あるので避けた方がいいとは考えてます。でも実害さえなければ大したことはないんだけど。まあ無駄に嫌われるようなことはしてません。逆に好かれる努力もしてないけど。

そして俺は他者に哀れみの感情を持てる人間でもあります。可哀そうだとか痛そうだとか辛そうだとか思えます。助けてあげられるのであれば助けたいとも。

だから一貫してるんですよ。社会に道徳や法治が浸透して、個人主義が浸透して、それぞれ一人一人が道徳や法律が許す範囲内で自分のやりたいことを他人に指図されることなく自由にやる、でも知らない誰かに何か悪いことが遭ったら助けてあげる。そういう考えかたですよ。好きだから助ける嫌いだから助けないって考えなど入り込む余地はないわけだ。そんな余地はないのが理想だと思ってるよ。だから AI は良い。そんなこと言ったら人間味がないじゃないか、好きな人を優先的に助けないのか、自分の子を最優先して守るのが親だろ、みたいな話がわんさか出て来るんだけど。

まあでも好意とか要りませんって言うと、社会不適応者とか言われたりしかねないからね。本当は沢山そういう人はいるんだけど言わないわけですよ。絡みづらくなるだろうし。でも好意と面白さ楽しさは別物だから遊んだりはするでしょうけど。

俺が女性に抱く好意ってのは基本的に性欲由来なんでしょう。だって相手の中身とか知らないし。本当に生きていて知る機会がないです。

地震雷火事親父って台湾でも通用するんでしょうか

能登も台湾も大変ですよね。台湾は行ったことないけど。日本から出たことないし。というか本州から基本的に出てないから。一度だけ北海道に行ったけど。それっきりで。台湾は東日本大震災で寄付とか結構してくれてたし必要そうであれば寄付すべきなんだろうなあ。二度あることは三度あるって来るだろうか。次は南海トラフとか。

満員電車

コロナ禍ではっきりしたことがある。エッセンシャルワーカー達だけではとてもとても満員電車状態になんてならないってことだ。つまり満員電車の原因はどうでもいい人達だよ。エッセンシャルつまり絶対必要な人達ではないのに、わざわざ敢えて満員電車に乗ってる妙な人達がいるから満員電車って状態が生み出されてる。テレワークすりゃいいのにな。まことしやかに言われているのが実は彼らは痴漢・痴女であって、満員電車が大好きなのではってことです。これはタブーだったのかもしれないけどさ。もう何十年も前から薄々みんな気づいてただろ。テレワークとコロナ禍がそれをはっきりさせてしまったんだ。もう言い訳できないよな。俺は超テレワークしたいですっていつも言ってるけど。今だからはっきり言うけど俺は電車内で痴女にあったことは少なくとも 5 回ぐらいはある。気持ち悪い痴ホモにも遭ったよ。醜いところだよ日本の都会は。でもまあ俺にテレワークさせてくれるならどうでもいいことさ。性欲を否定したりはしないよ。でも自分の性欲を満たすために社会を退行させようとテレワーク否定する連中が醜くてな。

何回も書いてるけど

俺は転生者が元の世界の知識で美味い飯を作って現地人の腹を満たす話は嫌いだ。飽きるほど読んだ。しかも面白くない。転生と天使って音が似てるな。打ち間違いそうになったわ。

休日に酔って書く

ロッコ問題の要諦ってのは時間とステークホルダーの数な気がするんだよ。確かにトロッコ問題は人の命がかかっていて、それをトロッコの向きを変更する権限を持った人間が意思決定する際の問題ですよ。でもそれってのは問題をそのままに捉えてもしょうがないって言うか。出題者が何を考えて出題したのか知りませんけど。差し迫った事態があって、それに対してコンマ一秒で決定するとしますよ。人間ってのは判断を誤る生き物です。コンマ一秒で正しい決断ができるでしょうか。まずできない。つまりコンマ一秒でトロッコの向きをどちらにしたところで、本人はいくらでも弁解できます。自分に対しても他者に対しても社会に対しても、いくらでも言い訳ができます。死者は蘇りませんが。でもどちらの死者をなかったことにしたところで善悪も正答もないわけですよ。そうなると大事なのは時間じゃないですか。どれぐらい決断までに時間があるか。つまり出題者に対して問題の是非を問いただすことが俺には正答に見えるね。過去問として問題を見る視座がそもそもの誤りってわけだ。人間社会ってのは一般的に地位が高くなれば高くなるほどに多くの情報に触れることができて、それに対して決定する権限を持つわけです、つまりより広い範囲に対して権限を保有することになり、またより早く決定権を得ます。また合議制の社会などではステークホルダーは多数いて一人だけで決定しませんよ。逆に底辺の人は一切合切の情報を得られず、自分が直に見聞きした情報だけで判断しながら、ある日その生涯を終えるんです。他の誰の生涯を左右するような権限を得ることもなく、情報を得ることもなくある意味で幸せに死ぬし或る意味で不幸に死ぬ。それよりも少しだけ地位が高い人は底辺の人の生死を 10 秒前に知るかもしれない。だけどそれを見殺しにして他の多数の人を活かす決定をするかもしれません。それより地位が高い人は底辺の人やそれより地位が少し高い人の生死を 100 秒前に知るかもしれない。そして同じ様に決定する。それが頂点まで連なってるんですよ。それがピラミッド上になってるのがピラミッド構造の社会でしょう。トロッコ問題を疑問視して議論する範囲を拡張すればそういうもっと実社会に即したような話に行きつきますよ。そもそも出題者の無意味な出題にまともに答えようとしちゃだめですよ。その時点で催眠術にかかってるね。それが学校教育を受けて来た人間のサガなんでしょう。そういう思考法は実社会に弱い。逆にクソみたいなラノベを読んでる人間はそういう思考の外法に強くなるのかもな。たとえばさ「あなたは 3 日前の時点で私の家族が死ぬことを知っていて決断したんだわ!」「あなたは 3 分前の時点で私の家族が死ぬことを知っていて決断したんだわ!」ほらね、全く重みが違うでしょ。