政治ってのは

各々が何を大事にしてるのかが出る物だよな。人によってそれが微妙に違ったり大きく違ったりする訳だ。物欲が全てな人はそういう判断をするし。身の回りが全てな人はそういう判断をするし。心意気が全てな人はそういう判断をするし。でもまあ大勢の人はそんな偏った考えでは無くて、色々な価値基準を各々の固有の比重で大事にしてる訳だけどさ。勿論それだけじゃないよ。価値観だけで判断が全て決まるんじゃない。知識とかの問題もある。TPP って物を良く知らないで判断をすれば、それ以前の問題って事になる。だからある事柄に対して賛成か反対かを聞いて、そこからその判断に至るまでのプロセスを推測するのは非常に難しい。長々と腹を割って話す必要があるだろう。
そして TPP ってのにもそれが出るんだろうなあって思ってる。国が大事だとか国益になるとか言う人がいる。その為に賛成という人もいれば反対という人もいる。それがどんなプロセスを辿って行き着いた結論なのかは分からない…。だから少しでも論を楽にする為に敢えて個々人の知識レベルとかは無視したい。そして国や国益が大事って意見を少し掘り下げてみたい。
国が大事とか国益になるって言葉は簡単には真意が掴めない…。単純に GDP の事を言う人も居る。天皇制の維持の事を言う人も居る。日本の自然や文化を守る事を言う人も居る。現存する日本人を守る事を言う人も居る。日本企業の利益を言う人も居る。
そんな中から国民生活と天皇制に就いて書きたい。でも俺は学が無いから頓珍漢な事を書くかもだけど。俺は天皇制に就いての歴史は詳しく無い。だから今の姿にだけ注目する。そうすると次の様な事が言える。国民の生活水準よりも明らかに贅沢な暮らしをしている。病気になったら徹底した治療を受けられる。だけど公務を行わなくてはならない。自由が余り無い制約を受けた生活をしている。高貴さが求められる( ノブレスオブリージュ )。ノブレスオブリージュの具体的な意味は知らないけど、例えば被災地へ行って被災者の一人一人としっかりと話をしたりする様な、そういった慈愛に満ちた高貴な行動をする義務の事だと思ってる。天皇陛下の振る舞いは持っている者が持っていない者に対してどうあるべきかの見本となっている。それにより天皇陛下の立場も保証される。持っていない者から「贅沢三昧しやがって」と言われる事が無い。「あの方は義務を果たしている」そう思われる。
そこで国民生活と TPP の話を絡めるけど。もし TPP で国民生活が著しく悪くなったのなら、格差が拡大したのなら、それは天皇制の存在の正当性が揺らぐ事に繋がるかも知れない…って事を言いたい。要は国民生活の低下と格差の拡大は、持っている者が義務を果たしていないって疑いの目で見られる要因となるって事だ。それってのは天皇陛下にも飛び火し兼ねない。だから国体というのを護持する為に国民生活を犠牲にするという論理は、おかしいかも知れないって事を言いたい。国体を護持するのなら国民生活を犠牲にしてはならない、という事を言いたい。そもそも国体って物が良く分かっていないで書いてるけど。
天皇制に就いて余り知らないで書いて申し訳無いけどさ。戦争が終って人間宣言をしたじゃないですか。それによって天皇陛下が現人神ではなくなった。天皇制の存在の正当性の 1 つが失われた。だけれども歴史的な正当性は失われていない。それでも歴史的な正当性だけでは民衆は納得しない部分もある。そこで戦後の天皇陛下は、自らを権力から分離された存在とし、そしてノブレスオブリージュを徹底する事で、多くの自由を失い責務を負い、持っている者があるべき姿を自ら体現する事によって、民衆に存在を認められ愛され、それを支持基盤として、自らの存在の正当性としてたんじゃないかなって思うんですよ。それが今でも受け継がれていると。俺はそんな風に思ってる。
日本には天皇陛下の存在があるから、アメリカみたいな国に比べて金に汚い連中が少ないんじゃないかって話は昔に書いたと思う。権力から分離されて規範を示す存在の有無は大きいんじゃないかって。だけどその規範の存在が余り意味を為さないと思われてしまったら、単なる金食い虫と思われてしまったら、天皇制の存在に疑問を投げ掛ける民衆は増えて来るだろう…。そういった面も良く考えて欲しいなあって思った。
国体という抽象的な物を最優先に考えている人達が世の中には居るらしいので、そういう人達に向けて書いてみた。