俺の子供の頃

俺は自分を優しいと思っていた。一部の人間を徹底して拒絶して言葉で攻撃して排除しようとしたけど。なぜそこまでやって自分を優しいと思ったのか。なぜなら俺は肉体的な暴力を日常的に家や学校でやられていたからだ。家では主に体罰として。学校ではいわゆるいじめっ子による暴力だ。肉体的な暴力を振るわれ続けた人間なら分かるはずだけど、言葉による攻撃なんてどうってことないんだよ。肉体的な暴力に比べたら全く大したことがない。だから俺は肉体的な暴力を振るわない自分を優しいと思った。そういうことだ。これは当時の俺の感覚としては全く正しかった。まあ武道とかやってる人間だとまた違った感覚になるのかもしれないけどな。

俺が他人を攻撃したのは、いじめっ子の影響もあって性格が荒れたのもあるだろうけど、俺はサディストではなかった。他人が痛がることをして楽しいわけではない。攻撃する理由は既に書いたけど拒絶だよ。

俺は論理で割と動く子供だったから。自分なりの正義感があった。だから拒絶するのであれば徹底的に拒絶した。やるなら徹底してやるということ。過激な宗教みたいなものだ。肉体的な暴力は振るわなかったけど言葉の暴力はそれなりにあったな。侮蔑するようなタイプの攻撃ではなくて排斥するようなタイプの攻撃が。とにかく俺の近くに来るな。そういう言葉を浴びせた。

俺は逆にいじめっ子達が新しい標的を作り出すのを邪魔したりしたから。何故ってそのいじめっ子の考えが周囲に伝播して俺に伝播して、俺がその子に敵意を抱くのが嫌だったからだ。その子を特別視してたわけではない。俺は敵だと決めた相手は徹底して攻撃する子供だったからさ。そうなるのが嫌だったんだよ。だから割と体を張って邪魔した。そういうこともあった。

他にも冗談で言ったことが何故か冗談と受け止められずにそのまま関係が悪化したこともあったな。いかにもサディストっぽいセリフを言ってみたんだよ。テレビとかで出て来る悪役みたいなセリフが思いついてしまってさ。面白いかもって思って言ったら、なぜか本気で受け止められてさ。いつもならこれぐらいのジョークが通る人間だったのにって感じだった。そのまま相手とは関係が薄くなって、相手は自ら落ちて行くようにどちらかというと悪い友人と付き合うようになったな。この件については事故だったんだろうなあって思ってますけど。俺が自分自身をサディストとか全く思ってなかったので、こんなバカなセリフ言うわけないだろって思いながらなけなしの演技力をつぎ込んで言ったら、予想外の結果になってしまったという。ただ悪い友人と付き合うことになって人生が狂った件については、俺の責任ではないと思ってますけど。関係していたとしても 1 割ぐらいでしょう。俺の感覚だとそうなってしまうんだよな。子供の頃に日常的に肉体的な暴力を浴びてた俺の感覚だと。この事実は今まではあまり大っぴらに語ることはなかったと思うんですが。これを語ってしまうと、その人物を危険に晒す可能性があったからね。その人物の人付き合いが悪い友人ってことは分かってたから。そういう悪い友人と付き合うとさ、互いにお互いの不幸な境遇みたいなのを共有してる可能性もあるじゃないですか。そこに万が一にでも俺が書いた情報が漏れて、そのあたりの関係性に傷が入るとまずそうでしょ。でも今ではそういった面で安全になってるだろうなって思うんですよ。あれから 20 年は経ってるのかな。その人物を取り巻く環境も変わってるからさ。あまり詳細は書きませんが。詳細に個人情報を書くほど馬鹿ではないので。十分に書いてるかもだけどさ。徹底して調査されると確かに身元は割れるでしょうし。

今では言葉による攻撃もいけないことだと十分に理解していますけど。いえ、子供の頃でも理解できていた。ただ、大人になると言葉による攻撃がそのまま法的な問題になったり、殺し合いになったりしますから。より実感あるものになった。それと大人になると色々とそういう肉体的な暴力を浴びる機会がなくなるから。そうなると肉体的な暴力がない日常が当たり前になるんだよな。つまり贅沢になる。そうなるとより高レベルを人間は欲望のままに欲するわけだ。肉体的な暴力がない日常なんて当たり前だ。言葉による攻撃も良くないやめるべきだって。俺の感覚がそのステージに乗って来たってことでもあるわけだ。

これについては俺は常に戒めが必要だと思っている。肉体的な暴力がない日常が当たり前、言葉による攻撃がない日常が当たり前、そうあるべき、法的にそうあるべき、社会はそうあるべき、そうあるべきということを公然と言える社会であるべき、目指すべき方向性はそちらであるべき。そう言うのは全く問題がない。ただし別の問題がある。人間は欲望のままに生きるものが多い。より多くを求め続ける。現状に満足せずどん欲に求め続ける。今の安全保障では満足しない。肉体的暴力がなくなったら、次は言葉による暴力もなくせ、その次は暴力的な言葉そのものを消せ、そう言い続ける。人間は貪欲だから。そのことについて、理想を求めるのはいいけれども、自分が貪欲な人間であることもまた十分に自認すべきだと思っています。もっと感謝すべきだよ。言葉による暴力がない社会に、肉体的な暴力がない社会に。それでいて、それがない社会に感謝するということを表に出すべきか出さないべきか、そこも良く考えたい。その当たり前であるべき事実に感謝を表明しなくてはならないほどに社会は荒れているのかと。そこなんだよな。日本人は当たり前のように平和を享受しているが、平和の価値は実はそれなりに高価だったりする。だから表明はしなくていいけど心の奥底では感謝を持つべきだと思ってる。俺は肉体的な暴力を日常的に浴びる日々を送っていたから分かるが、本当にそういうことがない日常というのはありがたい。だけど生まれてこの方ずっと肉体的な暴力なんて受けてない人間はそういう感覚はあるだろうか。俺はそういう貴族みたいな人間を軽蔑してるわけではないが、哀れみも感じるし、羨ましいとも思う。そんな貴族みたいな人間だからこそ、言葉による攻撃について過敏になるのだろうなと。

この日記は公開日記なので一応は無関係な人も読めますが、実際に読んでる人は皆無だと言うほどにいない。俺は耳が痛いことも書いてますが、攻撃性を出しているというよりかは正論的なものが主だ。正論は良くない場面もあると思いますが、日記に正論を書いてはだめなんてことはありえないですし。俺は面と向かって相手に言う言葉と日記に書く言葉は完全に使い分けてるので。当たり前ですけど。これは俺の日記であって、俺の精神を内部ストレージである脳から外にとりだして外部ストレージに置いたようなものだ。

俺は子供の頃に願ったことがあったんだよ確か。かなり記憶がおぼろげだが。俺は俺でありたいって。俺は誰の精神干渉も受けたくない。誰かの精神と混ざり合って能力が高まるぐらいなら、俺は低能な個人でありたいって。まんまそのままのことを願ったわけではないんだけど。似たようなことを願った気がするんだ。小学生の高学年の頃だった気がするんだけど。それでさ、ここ数年で精神干渉をされてみて実感しているのは、精神干渉というのは極めて不快極まりない。最悪だよ。俺の性格的に。だから俺がアスペルガー症候群的な所為で脳の外部通信能力が欠失している仮説が真実だとすると、そうじゃない人達は絶えず他人と脳で通信してるってことになるわけじゃないですか。それって最悪じゃないかって思ったんですよ。そんなん不快なんてもんじゃないでしょう。俺は自分の脳の静寂を本当に心地いいと思います。これはそれが当たり前だった昔では思いつかなかったことで。それと同じことが日記にも言えますね。日記は俺の精神を外部に出力したものであるので、これに干渉されるのは俺はやはり不快なんだよな。読んでる人いないのにさ。正論を読んで不快になる人がいるのは分かる。でも不快なら読まなきゃいい話でしょう。別に侮蔑してるわけではないのだから。正論って論理は誰かが発言したから世の中に生まれるんじゃないんですよ。発言する前から存在している。それを誰かが発言するかしないか、それだけです。敢えて発言する必要はないだろうって思うかもですが、俺は俺が考えて到達した論理を書き留めておきたい。この公開日記に。読者がほとんどいない日記に。そういうことです。

ここまで書いて、小学生の頃に自分の能力の向上を度外視してまで他者を拒絶することを願った自分といい、拒絶するために他者を攻撃した子供の頃の自分といい、脳の通信能力が欠失しているかもしれない自分といい、ダイバーシティーを謳って個の尊重を重視している今の自分といい、何か一貫していると気づいた。俺はそういう人間だなって。でも今では仕事で他者と連携しているわけだ。俺も成長しているわけですよ。まあ仕事ってのもあるけど。仕事の対人関係と友情とか愛情とかの対人関係は違うからな。プロジェクトを成功させる、お互いに金のために頑張る、それは情ではなくてミッション達成のためにお互いに頑張ろうって話なので。

https://youtu.be/p96ortn0ots?t=256

しかし北海道はホッケもニシンもホタテも資源管理できてきてるんですか。素晴らしいな。