YMO の記事を読んで思った

まず大事なのは高橋幸宏が死んだってことですよ。それで YMO が注目を浴びている。つまり記事がトップに上がりやすい状況になっている。だから世情に疎い俺の目にもついた。それと YMO のことを思い出したり思いが湧き上がったり記事を書きたくなった人もいたんでしょう。だから俺が見た記事を書いた人もそうだったのかもしれない。でも、そんな単なる弔意を表すだけの記事であれば一介の記者が書いた程度の記事がポータルサイトのトップに出ては来ないでしょう。その通りでその記事は弔意ではなくて、YMO の凄さを語った記事だった。記事の内容をあんまり覚えてないけど。その記事はシリーズものだったらしくて、今回の高橋幸宏の死から YMO への弔意を表すという流れで書いたのではなく、音楽に関する偉人の凄さを語るシリーズの登場人物として YMO を語る記事だった。実際には高橋幸宏の死で思い出して書いたんじゃないかとは思ってますけど。で、そのはっきり覚えてない記事の内容ですが、弔意は書かれてなくてバンドの凄さ、主に高橋幸宏の凄さが書かれていた。でも、それって結局のところ弔意なのか、どうなんだろう。故人については悪く言わないってのが日本では世間一般的というか。墓から死体を出して鞭を打つ国とかも世界にはあるって話なので、日本は割と死者には優しい国で。まあとにかく YMO高橋幸宏を褒めたたえる印象が強い記事だったんですよ。別にいいんだけどそれってどうなんだとは思いました。このタイミングでそれを書かれると弔意的なものなのか本当にそう言ってるのかわからなくなってしまう。仮に弔意だとしても実際にそうなのかもしれないけど。って思うんだよ。逆にそう見せたいのかもしれないけど。褒めるんなら生きているうちに褒めろよって思ったりもする。確かに生きている相手を正面から褒めるのは照れるかもしれませんよ、言われる側も言う側も。それに褒めるってのは評価する批評するみたいな側面もありますので、なんか上から目線だよなって感じで言いにくいのかもしれません。だから死んでから褒めるって感じになったりすることもあるとは思う。弔意を表しながら褒めるってのは、逆に弔意的にしか褒められないお世辞としてしか言えないって意味でもあるのかもって捉え方は流石に性格がひん曲がっていると思いますけど、それでも記事の信ぴょう性って意味では微妙になるんだよなあ。生きている内に褒めた方が間違いなく良かったはずで。タイミングを逸した記事だなあって思った。恐らく死んだからこそ書きたいって思ったんだろうけどさ。でも繰り返すけど偉人を称えるシリーズものだったなら生きている内に書くべきだよなって印象が非常に強い。その記事では時代の変化という側面から YMO を褒めたというより、唯一無二の存在として YMO を褒めたって書き方のが強くてさ。確かにミュージシャンというのは唯一無二として褒めるべきとは思うんですよ。というかそれがミュージシャンや音楽への愛というか。時代の変化を感じたから愛したなんて言わないというか一時的に愛してたよみたいなことを言ったりするのかもだけど。とにかく YMO を皮切りにしてテクノが一般的になった、YMO は先駆者だった、みたいな褒め方は少なくてさ。唯一無二のドラマーであり作曲家であった高橋幸宏みたいな感じだったんですよ。なんでこんなことを書いたかって、なんらかの記事など読んだり聞いたりする際には、最低でも文脈と場面を意識しないとってことを言いたかっただけです。