スレイヤーズ作者の神坂一が言ったこと

後書きだったか何だか忘れましたが、主人公をリナという女の子にしたのは、この性格で男だったらうざいんじゃないか、みたいな理由だったそうです。その言動が真実であれば主人公の性別を物語を面白くするために戦略的に決めたってことになるかと思います。まあ普通に考えて男の作家が女の子の主人公を描くのは難しいと思いますし。つまり神坂一は面白いものを描こうとしていたってことになると思います。そもそも富士見ファンタジア文庫の新人作家発掘系のコンテストだったかなんだか忘れましたけど、そういうのに応募して当選するのが目的だったそうですから、本当に面白い作品を描こうって思ってたんだと思います。なのでそういうところもあるのかもしれません。この「ラッキーマン物語(旅情編)」からはそういう面白いのを描いて当選するんだみたいなことを重視しているように見えないというか。なんて言ったらいいかな、辞書を書いてるような感じなんですよ。ラノベの辞書みたいな。これで俺の言いたいことは伝わりますかね。分かりにくい例えかもですが。なるべく細かいことを詳細に描いているというか。それも色々な登場人物の視点で。なので例えば主人公御一行が A って町から B って戦場に行って戦争して A って町に戻ってくるって過程を描くんですけど、途中で馬車の車輪の軸にダメージがあって修理したとか、すれ違った人に林檎を貰ったとか、盗賊に襲われただとか、馬車で酔って吐いたとか、そういうありがちなイベントを網羅している感じっていうかな。そういうのって辞書じゃなくてなんていうんですか。ガイドブックじゃないですよね。ガイドラインとか。見本とか。テンプレートかなあ。ひな形とかスケルトンとか。まあそういう感じが強い作品なんですよ、この「ラッキーマン物語(旅情編)」ってのは。なので面白さはいまいちかなって思いますけど丁寧ですねって思うわけです。

その点でスレイヤーズはほぼ完全に主人公のリナの視点で描かれますからね。主人公視点でのみ描かれるってことは話の展開にスピード感が出るんですよ。他人の視点を描かないから当然ですが。主人公視点のみの作品は単純だなんてことを言う人もいますけど、俺は全くそんなことはないと思ってますね。主人公視点でしか描かないってことは、表現手法が限定されるので描き方が難しくなります。限られた表現手法の中で工夫することになるわけです。散文と韻文のどちらが優れているかみたいな話ですよ。だってさあ言語表現の無限の可能性って言ったら言い過ぎですが、高々ひとりの人間の生涯では把握しきれないほどの表現が文学にはあります。それこそ将棋とか囲碁なんて比較にならないわけですよ。それなのに高々人間程度の存在が主人公視点のみの作品は単純で面白くないなんて言ったところでねえ…って思うだけですね。じゃあ主人公が圧倒的に強い作品は面白くないって言ってるお前はどうなんだって言われるかもですが、でもなあ俺の意見はごもっともだと思いますけど。

描画の粒度ってのも必要な観点でした。日常描写まで細かくしているのか、それとも大きなイベントのみ描写しているのか。この「ラッキーマン物語(旅情編)」は日常描写はあまりないです。要所要所の日常描写が辞書的にあるだけで。なので人情的なものはあまり感じられる作品ではないです。なので日常系の作品ではない。それにギャグもないと言って良いです。辞書にギャグは不要だから。基本は冒険なのかな。ある少年の人生を描いていて、現代日本社会では考えられない非日常的な冒険を色々としてる様を描写してる感じか。

でまあ人生を描写してるって書きましたけど長編なんですよ。これも大きいですよね。短編だったら問題ないですから。人類全員 VS 主人公一人で主人公が人類を圧倒するぐらいに強かったとして、それが短編だったら別に良いんですよ。直ぐに終るからさ。でも長編だから困るんです。圧倒的に強い主人公とその他の雑魚との関わりの話を長編で主人公視点で主人公の人生を描かれても、読者としては読んでて詰まらないじゃないですか。そりゃ飽きますよね。もちろん作家の才能次第とは思いますけど、構造的には面白くなる要素が少ないと思うわけです。圧倒的に強い主人公が好き放題できるってだけですから。世直しだって言って世間の悪を潰すにしたって、主人公があまりにも強すぎるのでなんだかなあって感じになるところがあります。そうなるともうギャクセンス高い日常描写ぐらいしかないような気もしなくもないんですけど雑に考えると。ああ人類以外の敵を登場させるってのは無しで。ということで、それなら未だ人類全員と同程度の強さの主人公が社会の中で動く方が色々と困難に直面してそれを克服している様などを描いて、見せ所が生まれる余地余白があるんじゃないかと思うわけですよ。

それと思うんですけど、主人公は大抵の作品では人間なんですけど、人間ってなんだよってとても思います。たとえば主人公が神様って設定の作品があったとして、実はすべての能力面とかで人間と同程度の力量しかないとしたら、その主人公は神様なのか人間なのかってことです。作者が神様って言ってるんだから神様だろってのも当然の解釈ですが、でも全ての面で人間と同程度だって言ったら人間じゃないかってことにもなるわけですよ。違うんですかね。同じ様に考えると人類全てを相手にしても圧倒できる主人公が人間という設定の作品があったとして、その主人公は人間なんですかってことですよ。生物学とか科学的な意見はあまり意味ない気もするんですけどファンタジーの話ですから。

で神と人間で何が違うかってさ、神が人間社会に直接介入することの是非って論点がありますよね。圧倒的な力を持つ神が人間社会に介入すれば社会が歪むとかさ。もしくは神は積極的に弱者を救済すべきだとかさ。そういうことなんですよ。通常の人間より圧倒的な強者ってのは、そういうことが論じられて然るべき存在だってことが言いたいわけです。

ここで混同して欲しくないのは、俺は飽くまで本の話をしているってことであって、現実の現代社会の話をしているわけではありません。本が面白いか面白くないかって話をしているんです。多少は現実に通じる話もあるかもしれませんが。

昔の記事に書いたと思いますけど、複数の要素を掛け合わせたような可能性は無意味なので考慮してないです。たとえばギャグ作品とかさ。ギャグ作品はギャグだけで十分な存在意義があるので、それに最強主人公を掛け合わせていようがいまいがあまり関係ないわけですよ。もちろん最強主人公系ギャグってのもあるとは思いますが。それはギャグ作品であって最強主人公の話って枠組みではないですね俺としては。他にも色々とあると思いますよ。たとえば最強主人公が孤独のグルメしているとかさ。まあ無意味な想定であって、どうでもいい話ですが。