やった後悔とやらなかった後悔

って言葉がありますけど。これは個人に関する話で良く言われることで集団では一般的にはないですよね。集団の場合は後悔ではなくて、責任の方が良く言われる気がします。やったら誰が責任を取るのか。やらなかったら誰が責任を取るのかって。ただし一般的にはやった場合に誰が責任を取るのかって言葉の方が良く言われると思います。そのセリフを言うってことは、やらなかった場合は誰が責任を取るのかって言葉もセットだと思うんですけど、一般的にはやった場合のが責任が重いだろってイメージが先行してる気がします。根本的には五分五分の話であって、ケースバーイケースとは思うんですけど。

デジタル化とかはんこ廃止も同じだと思ってますけどね。だって世界的にははんこなんてあんまし使ってないわけじゃないですか。はんこの起源は中国ですよね確か。でも中国人がはんこを未だに使ってる日本は遅れてるって言ってます。世界的にははんこより署名ですよ、確か。グローバルスタンダードですよ。それにデジタル化も進めているわけですよ。この状況でデジタル化に背いてでもはんこ文化を徹底的に維持するっていうのは、世界的な流れから逆張りじゃないですか。オッズがめっちゃ高いというか。めっちゃ博打なわけですよ。なんか良く分からないけどはんこ文化があったことで、日本だけ世界的に助かるって展開の将来もあるかもしれません。でもそれはかなり博打な選択肢ってことだと思います。

結局のところ未来は分かりませんので、最終的には結果次第だってことにはなると思うんですけど、結果じゃなくて経緯だけで責を問うという手法を取るのであれば、一般的に博打的な選択肢を取った方が責は大きい気がしますけどね。

今回は新型コロナがあって、日本の対応力の低さの一つにデジタル化の低さが言われてました。これもデジタル庁の理由の一つだと思ってます。こんなことはいくらでも言えるみたいな与太話を書くと、実は新型コロナは日本への天からの試練であって、デジタル化やテレワークを推進するために起きた、みたいに考えることもできて、今回は単なる脅しでほとんど日本人が死ぬことはなかったけど、次が本番で、それまでにデジタル化やテレワーク体制ができあがってなかったら、その時には本当に沢山の人が死ぬってこともあるかもしれません。

そんな風に考えるとやった責任、やらなかった責任、そんなことを言うことのバカらしさみたいなものが浮かび上がると思いますね。はんこ文化を残したいとかはんこ業界へのアフターケアはどうだとか、そういうことを言うんであれば、未だ話がわかるんですけどね。そりゃそうだよねって。俺もそこは本意じゃないですし。ただ日本だけ馬鹿みたいに紙でずっと色々やってたら、どんどん置いてかれるんじゃないかって危機感はちょっとあります。単なる一市民ですけど。